like a little grebe

こないだポール・オースターの読書会に行ったんだが、そもそも誰も読む主体として成立していなかった。というか、誰も自分が誰かしらなかった。というか、その読書会自体が〈誰か〉から書かれている真っ最中だった。最後にホームレス然とした人が突然やってきて自分はポール・オースターだと、名乗った

Twitter / @anata_omaeda: こないだポール・オースターの読書会に行ったんだが、そ …


書きとめられる前から航空工学はあった
記憶される前から空はあった
そして
飛びたいと思う前からおれは両手をひろげていたのだ

— 寺山修司「人力飛行機のための演説草案」 (via hazy-moon)


合理主義の哲学者や形而上学者は逆に「大括りの抽象化」から出発するが、これはぼんやりとした光しか投げかけてはくれない。なぜなら「一般化行為は諸概念からおよそ感覚的なところを奪いとる傾向があるのである。この手法を進めると、肉感の幽霊は後退し、諸概念は次第に想像力から悟性の方に引き寄せられ、諸概念は純粋に知的なものになる」。ディドロはニュートンと重ねられるこの脳髄による遠隔作用を、山の頂きから平原を見おろす数学者に譬えている。山頂から彼が唯我論的に観察するのは実は彼自身の思惟もろもろでしかない。他の誰も彼についてこの超絶の高みに行くことはできないし、そこの希薄な空気では生きていけない。

— 『ボディ・クリティシズム』バーバラ・M・スタフォード、高山宏訳(国書刊行会)p223。 (via enjoetoh)


今では名の知れた骨董商となっている主人が青年のころ、骨董商が集まる競りで、志野焼の素晴らしい茶碗を見つけます。青年はなんとしてもそれを落とそうと、5000円、いや6000円まで出しても構わないと決め(「真贋」が書かれた昭和26年で、教員初任給が5000円程度。競りが行われていたのは恐らく昭和の初めでしょうから、そのころですと教員初任給が50円程度の時代)、入札したところ3000円で落札。狂喜していると、なんと、先輩の商売人から「あれはどこの会でも300円を出たことがない」と言われてしまう始末。はたして、数日後にある金持ちのところに持って行ったところ、やはり売れずに返品されてしまいます。それでもやはり、その茶碗は美しく見えるわけです。そうして一晩、茶碗を眺めていると…
眠られぬ夜は明けて、茫然と雀の鳴き声を聞いていると、茶碗はいいのだ、俺という人間に信用がないだけだ、という考えがふと浮かび、突然の安心感でぐっすり寝てしまったそうだ。彼に信用がつくに従い、彼の茶碗が美しくなったことは言うまでもない。では美は信用であるか。そうである。

はてブニュース - 今週のライフハック格言~「小林秀雄『真贋』」の言葉 : ライフハッカー[日本版] (via ibi-s)


ここでもプリモ・レーヴィの短編がぴったり来る。「二人一緒にいるように」という作品では、2個の図形である恋人が平たい国(フラットランド)にいる。いみじくもプラトン、スルファと名付けられている二人は、茶色の方形をした家、青いZ形の水、緑の塊たる木、場所を表す点といった図形世界で、2本の細い線である。

— 『グッド・ルッキング』バーバラ・M・スタフォード(産業図書)高山宏訳、p223。 (via enjoetoh)


rob-art:

 (via TOKYO TAMA CITY:多摩へようこそ[ファーレ立川])

人の言葉を幾重につないだところで、人間同士の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはそれはおそらく通じない。無花果の実が熟れて地に落ちるさえ、熟しかたに微妙なちがいがあるように、あの深い未分化の世界と呼吸しあったまんま、しつらえられた時間の緯度をすこしずつふみはずし、人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。
石牟礼道子『椿の海の記』
 
 この映像を思い浮かべて、彼は奇妙な暗い思索の洞窟を垣間見たが、すぐそこから眼をそむけた、まだ、あのなかにはいっていゆくときではない。この友人のものうげな様子は、きちがいなすのように、まわりに希薄な毒気をまきちらすように思われた。そして彼が、次から次に右や左に現れるかりそめの言葉に視線を投げながら歩いてゆくと、それがみなその場限りの意味を失って沈黙し、しまいには下らぬ店看板が彼の心を呪文のように金しばりにする。そういう死語のうず高い山をよけながら横町を歩いてゆくにつれ、彼は魂が老衰のせいで吐息をつき、萎えてゆくのを、虚ろな驚きの気持ちで見ていた。彼じしんの言語の意識が脳裡から潮のように退き、言葉そのものに細かい流れとなってしみ入ってくると、言葉はとりとめのないリズムで結び合わされたり、解きはなされたりした。
ジェームズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』

rob-art:

(via TOKYO TAMA CITY:多摩へようこそ[ファーレ立川]) 人の言葉を幾重につないだところで、人間同士の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはそれはおそらく通じない。無花果の実が熟れて地に落ちるさえ、熟しかたに微妙なちがいがあるように、あの深い未分化の世界と呼吸しあったまんま、しつらえられた時間の緯度をすこしずつふみはずし、人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。 石牟礼道子『椿の海の記』    この映像を思い浮かべて、彼は奇妙な暗い思索の洞窟を垣間見たが、すぐそこから眼をそむけた、まだ、あのなかにはいっていゆくときではない。この友人のものうげな様子は、きちがいなすのように、まわりに希薄な毒気をまきちらすように思われた。そして彼が、次から次に右や左に現れるかりそめの言葉に視線を投げながら歩いてゆくと、それがみなその場限りの意味を失って沈黙し、しまいには下らぬ店看板が彼の心を呪文のように金しばりにする。そういう死語のうず高い山をよけながら横町を歩いてゆくにつれ、彼は魂が老衰のせいで吐息をつき、萎えてゆくのを、虚ろな驚きの気持ちで見ていた。彼じしんの言語の意識が脳裡から潮のように退き、言葉そのものに細かい流れとなってしみ入ってくると、言葉はとりとめのないリズムで結び合わされたり、解きはなされたりした。 ジェームズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』


手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』

宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』

庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』

富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』


藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は
「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。
漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。』

VIPPERな俺 : 宮崎駿って本当にオタクが嫌いなんだなw (via dgwgb) (via korori39) (via yuibb) (via hisame) (via atorioum) (via cuica) (via glasslipids) (via shinoddddd) (via gutarin) (via monorainbows) (via appbank)

2010-04-27

(via quote-over100notes-jp) (via alice-lives-in-the-reblogia) (via fujihajime) (via raikoudengeki)

(via ghostas2) (via hkdmz)